2021年3月7日に
Team-K主催の語り部を開催しました。
震災当時17歳の高校生だった方のお話。
多数のリクエストを受けて、
テキストによるダイジェスト版を
お届けいたします。
大切な人を守るために、未来のために、
何かを考えるきっかけになれば幸いです。
高校生だった僕にとっての震災
僕は現在27歳。
今はいくつかの会社・団体をつくり南三陸町で町おこしに奮闘している。
そんな僕は、当時高校2年生の陸上部員だった。
2011年3月11日14時46分。
その日はたまたま自宅にも学校にもいなかった。
雪が降っていた。
勉強をするために、
高台にある「志津川自然の家」にいた。
津波が町を飲み込んでいった。。。
ひいおばあちゃんは言った。
「空襲の時みたいだ」と。
津波をかぶった高齢者を救助した。
低体温症になっていた。濡れた衣類を脱がせた。
なんとか意識が回復した。
「助けたい」というより、
「死なせたくない」
「殺したくない」という思いだった。
自宅も流されてしまった。
写真も数冊のアルバムだけになってしまった。
4日目に電波が復旧。
家族とも連絡がとれた。
家族はおじさんが仙台市内に避難させていた。
僕は行方不明者リストに載っていた。
5日目には道路も復旧。家族と再会が出来た。
そして、町内最大規模の避難所の給食班に加入した。
不幸中の幸いにも、津波到達の瞬間を目で見ていない。
だから、冷静な気持ちで避難所の活動にのぞむことができた。
テントの設営、非常食の調理、要救助者の手当て、介抱、声がけ・・・。
がむしゃらだった。。。
祖父が言った言葉
ある日、避難所での話だ。
祖父に僕はこう言った。
「自分もこれからこの町に必要なことをやっていきたい」
祖父は避難所に響き渡る声で怒鳴った。
「これから10年は復興だ。その先はなんだ?繁栄させなければならないだろ!これから10年は俺たちの世代が土台をつくる。お前たち若い世代は、その先10年だ。そのために、大学やどこにでも行って知識と経験を蓄えることが必要だ!」
僕は決心をした。
この「被災地」と呼ばれる地元で、
未来を作っていきたい。
社会課題となる「高齢化」「人口減少」における町の取り組みとして先進的に取り組んでいきたい。
笑顔が集まる場所にしたい。
南三陸町に来てもらいたい。
一人ではできない。
たくさんの人の
たくさんの手で
笑顔が集まる場所にしたい。
被災地のイメージを変えていきたい。
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